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2008年3月 4日 (火)

トーク「江藤淳を大塚英志がどう論じているか」

戦後日本の知識人の精神史 第二回
−江藤淳を大塚英志がどう論じているか−

2008年3月29日(土曜)
19時より(18時30分開場)
料金 800円(1ドリンク付)
講師 河津邦喜(哲学者)

2月に行なった「−吉本隆明への最近の評価について−」に続いての第二回目です。
日本のマンガを論じる大塚英志の著作を大変面白く読んだので、今回もどんなお話しになるのか期待が膨らみます。(カフェ・パルル/はち 新見)

メールにてご予約いただけると助かります。

以下は講師の河津さんから参考のためにと送られて来た年譜です。(3月24日掲載)

○江藤淳(本名 江頭敦夫)の年譜
1932年東京大久保で誕生;父方祖父が海軍中将・母方祖父が海軍少将;父は銀行員で、家族は特権的な都市中産層(父は英語に堪能で、ゴルフ・乗馬に興じ、女中が江藤の面倒を見た)
37年母が結核で死亡。溺愛されていた江藤にはショックだった(母は日本女子大英文科卒だが、結婚により、女として羽ばたくことを諦め、家に篭っていた・・・近代が母を、<家で母たること>と<女として羽ばたく>ことの間で引き裂いていた)
39年父が再婚、江藤は義母に馴染めず、小学校の廊下で小便を洩らしても義母に隠した。それ以来不登校になり、義母・女中に連れられて学校へ行っても、すぐ逃げ帰って納戸にこもって読書(日本文学全集・世界文学全集)に耽った(谷崎に惹かれた)。納戸は実母の遺類品に満ち、「母の胎内に等しい役割」(『一族再会』)をもっていた。家族会議で、家庭教師をつける案を父が「国法の定める義務教育を受けさせぬわけにはいかない」と退けた。この<法を告げる父>は、「かつて私にとっての最初の他人であり、私と他人=社会との通路だった」(『文学と私』)。
41年結核菌が感染していたと判明し、義母からはなれ、義母の父=英文学教授の鎌倉へ転地。溺愛されるが、結核たびたび再発
☆<実母の死・何度も再発する結核・日米戦争>が、言葉にならない不安を江藤に刻印した・・・65年の『漱石論』で<漱石は、「怯えた不幸な暗い幼年時代の記憶から浮かび上がってくるもの」「(正体不明な)ぷよぷよした醜悪なもの、長く直視するに耐えないもの」と闘っていた>と江藤は、漱石へ自己を投影した
42年鎌倉第一国民学校に転入
45年東京空襲で一家も鎌倉へ疎開。大久保の生家は焼失し、実母の遺品の喪失を江藤は悲しんだ。
・12-13歳-平均的な皇国少年として戦死を夢見ていた。戦局が不利になって、周囲の監視が緩み、45年初夏に性の解放を感じた。「ぷよぷよとした醜悪なもの」(病気・死・戦争)を、禁じられた(性的)憧憬の対象としても刻み込んだ
・8月敗戦-祖母は「お国をこんなにして、大勢人を死なせて、陛下は明治さまに何と申訳をなさる」と言った。
 音楽に救いを求めてバイオリンを学び音楽会がよいと作曲の日々
46年神奈川県立湘南中学校に入学(一級上級に石原慎太郎)
48年貧窮のため北区十条=場末のバラックに転居;アッパーミドルからの没落体験として感じた
・祖母の死(明治を象徴し、実質的家長だった祖母の死は、あらゆる古い価値の崩壊として感じられた)
・ゴルフバッグ(敗戦前のプライドの象徴)を盗まれ、焼け跡時代に無力でしかない不甲斐ない父(負けたのだからしょうがない、が口癖になっていた)に替わって「大人になること」を決意するも、負担を背負いきれず、結核が51年に再発し、焦りから、義母に甘える義弟を、「そんなことじゃ大人になれないぞ」と言いつつ、狂ったように折檻した
51年高校3年生のとき、結核再発・休学・自宅療養
・義母がカリエスになり、父も倒れ、三人とも病床にある⇒ ☆突然、死ぬことが汚いことだと実感した
・救いを求めて、湘南中時代の仲間石原慎太郎らと共に研究会、マルクス主義急進主義へ傾斜、激烈に議論したが、自分に会わないと感じて、文学耽溺に戻った
・戦後日本文学はピンとこず、日本とは別世界へ連れて行ってくれるヨーロッパの翻訳文学や堀辰雄・立原道造らロマンチックな詩・小説や小林秀雄・福田恒存の審美的評論を好んだ。太宰治は富裕層からの転落の気持ちにぴったりだったので耽読したが、「ふざけるな、いいかげんにしろ」という甘ったるい悪い酒への反発も感じた・・死の香りをロマンチックなものに嗅いでいた
50年朝鮮戦争開始、自分も動員されるのではと恐れ、「米ソの合戦の中で集団的な死の中に自分を埋めるほど愚劣なことはない」と戦死への誘惑を相対化し、太宰を読むのをやめて英語の勉強に集中した
52年高校生徒会誌に小説『フロラ・フロラアヌと少年の物語』;少年の母は父と結婚して文学の才能を捨てており、母を失った病身の少年が幻想上の少女と交流して死に、父は憔悴して廃人のようになる―少女趣味
53年慶応大文学部入学
54年 22歳慶応大学英文科へ進学
同人誌に『マンスフィールド覚書』『同 補遺』;<現実拒否・過去への愛着・死への憧憬>を肺病病みのヒステリー女に見出す。6月喀血、父の怒りの重みを受け止めないのは卑怯だと考え、父に報告した

☆この頃から、ロマンチックな現実逃避(死への憧憬)を叩き、現実社会へ投錨し責任を負うことを謳う批評文へ転向
55年『三田文学』編集部の山川方夫に頼まれ、愛読した小林秀雄・堀辰雄でなく、夏目漱石について作家論を書く
 父の厄介になりたくなくて、家庭教師をやって学費を捻出する
56年漱石論続篇 11月『夏目漱石』刊(平野謙が序)―文壇デビュー
57年ローレンス・スターンを卒論にして、大学院へ進学。指導教授の西脇順三郎に徹底的に嫌われる。
三浦慶子と結婚し、父の家を出る。新進作家の大江健三郎を知る
58年評論家活動を止めないなら大学院を止めろと言われて、大学院に行かなくなる
 講談社から依頼されて『作家は行動する』を書き、翌年刊行。『奴隷の思想を排す』を11月に刊行

☆<卑俗な日常生活からの逃避、美しい死への憧憬、自然との合一による自己滅却、無定形な暗いエネルギーの激発>を抑圧して、<日常生活への投錨、社会的責任を負うこと、秩序・輪郭を与え守る散文的努力>を大事にすべし、と主張。白樺派・私小説・日本浪漫派・皇国主義的ファナティシズム(戦死への憧憬)・小林秀雄らの詩的文体を、前者として批判し、漱石の散文的文体・マルクス主義・戦後民主主義を、後者として賞賛

59年慶応大学院を3月に中退
☆講座『現代の発見』への寄稿論文(戦争責任論)で進歩派批判の最初の徴候をみせる;戦中派知識人(橋川文三・山田宗睦)を罵倒;戦中派が戦死を美化して天下泰平の日常生活(家庭)を蔑視している、と非難。

・評論『新人福田章二を認めない』;福田の『喪失』は現実との軋轢を起こさないから他者が出てこない、と批判
60年1月から小林秀雄論連載 2月『作家論』刊 5月安保騒動で石原・大江らと共に「若い日本の会」に参加;抗議集会や声明
・1月羽田空港デモで逮捕された全学連主流派幹部に救援活動した進歩的知識人を、<愚挙を叱らず同情する不潔>、<混乱した若者に法を告げられない無力な指導者>として、非難
・6月10日ハガチー事件(反米愛国を叫ぶ共産党系全学連反主流派がハガティー氏の車に群がる)の現場にいて衝撃を受ける
;戦中の<死への憧憬>を呼び覚まされた。統制を失った無責任な「巨大なアメーバ」として、デモ隊のことを感じ、秩序を回復してくれる指導者を求めて、近くにいた社会党議員らに食ってかかった。事件についてのレポートの中で、社会党議員を「無責任の象徴」と批判し、事件の顛末を「進歩派指導者の頽廃と無能を暴露した茶番」と形容した
☆安保闘争中のデモに<死への憧憬>を感じて魅了されたからこそ、それに反発し、日常での散文的努力で対抗しようとした
・7月『中央公論』に『声なきものも起ちあがる』;安保の是非でなく、議会制民主主義の回復が求められるべきであり、強行採決は一般市民の生活感覚から批判されるべきだ。日本は左翼急進主義のファナティシズム(死への憧憬)に脅かされている
☆10月評論『戦後知識人の破産』で、<戦後民主主義者・進歩的知識人・左翼>批判を開始⇒右傾化
;丸山真男の『世界』60年8月号の『複初の説』を批判;丸山は「敗戦の日に日本の再建を決意した記憶を想起して公的関心を復活せよ」と説くが、「8月15日を基準点として現状の日本を批判することは、観念に頼って現実から目を逸らすものだ」
・12月から文芸時評
61年大江健三郎の『飼育』『芽むしり仔撃ち』を絶賛;作者個人の人間的意志と死の官能とが絶妙なバランスをとっているから
62年『青春の荒廃について』;大江健三郎への批判開始;大江を、虚構から出て日常生活へ投錨せぬ子供、と批判
8月渡米(ロックフェラー財団研究員として9月からプリンストンに住む)
63年夏に一時帰国;東京オリンピックを控えて土木工事の進む東京を猥雑で醜悪と見る;大久保の連れ込み宿化を知った
 友人と酒場で軍歌を聞いて嫌になったが、突然、日本のために死んだ300万の戦死者こそ実在だと感じた
☆現実の故郷を喪失すると同時に、戦死者の記憶に故郷を発見した
63年6月プリンストン大で日本文学史を講義;学生に講義してプライドを満たされ初めてまともな職についたことに感激した
11月ケネディ暗殺;アメリカ人の教え子が軍服を着て追悼式に参加する様子に感動(池田首相は日本人から同じ様には尊敬されていないことを痛感した)。明治天皇の死に際して日本人がいかに威厳を持って悲しんだかをロンドン・タイムズの古記事で読み感動したが、大戦中の海軍士官の腐敗醜状を知っていたので、祖父の時代(明治)の海軍を理想化した 
64年6月に『国家・個人・言葉』を書く;戦後日本は、倫理の源泉であることを引き受けたがらぬ国家が、ただ金をためろ、輸出を伸ばせ、というだけ。個人はそのため孤独であり、何を持って善・悪とすべきか知らず、ただ生きているだけ 
 8月日本に帰国、旅館(妻が蚤に刺されジンマシン)・転居(妻が霜焼け)・父の信用で借金する屈辱に耐えてマンション購入(入居前日壁が落ち、いらいらして妻をアザが出来るほど殴る);社会と交渉し軋轢を背負うのはいつも妻;江藤は妻に保護される 
65年『アメリカと私』刊
 『日本文学と<私>』;社会秩序を成立させるのは禁止である。その中にいるとき人はその個体を維持している。一方、性的恍惚は、個体が解消される瞬間に訪れる。漱石のテーマは、社会的役割以前の無限定・無所属・無防備な<私>という、「ぷよぷよした醜悪なもの、永く直視するに耐えないもの」という、近代人の宿阿の克服だった。乃木が明治帝に殉じて自決したとき、漱石も国のためにという失われた役割に目覚めた。
66年『戦後と私』;一家の没落の経緯・父との関係を始めて書く;「戦後は喪失の時代だ」と私情を述べる
☆江藤の<父のイメージ>の背後には、<衰弱した国家のイメージ>があり、国家を私情かつ公という矛盾したイメージで捉えた
67年『成熟と喪失』刊
 『日本と私』;天下国家も文学も(公)忘れて、子供と学校の心配(私)をしてみたいが、子供のことは先延ばしもしたい
  父との確執と、妻をアザができるほど殴打したこと⇒家庭の幸福(私)も、国家(公)と繋がっている手ごたえも実は無い
 10月『現代をどう生きるか』;大江との最後の対談;決裂
70年『<ごっこ>の世界が終わったとき』;戦後日本人のIdentityが混乱し、ごっこの世界になったのは、公的価値を米国に委ねたから。<公的なもの>とは、共同体の運命を自分たちの意思から生まれるものとして引き受ける覚悟だが、これが無いから、対米従属の保守派も、憲法擁護も、三島や全共闘も、ごっこ遊びになる。だから、安保条約を発展的に解消して、米国と新たな同盟関係を結び、在日米軍を撤退させて、1941年12月7日(日米開戦)以前に戻れ、と主張。そうすれば、敗戦や戦死者という(経済発展のための対米従属によって忘れられてきた)現実と向き合える、と説く
71年東京工業大学助教授になる
 『国家目標と国民目標』;家の中での公の象徴たる父の復権を求めるが、<疲れた不安な父は、妻の上に母のイメージを重ねてしまう現実>も認めていた
73年『一族再会』第一部刊
76年『海は甦る 第一部』刊   村上龍の『限りなく透明に近いブルー』をサブカルチュアと批判
78年本多秋五と「無条件降伏」を巡り論争 11月「小説がカルチュアの座から転落し、サブ・カルチュアに低迷しつつある」
79年ワシントンの研究所に赴任⇒12月『忘れられたことと忘れさせられたこと』刊
80年『1946年憲法―その拘束』刊 田中康夫の『なんとなく、クリスタル』を絶賛
84年『自由と禁忌』刊
89年『昭和の文人』刊;下町のごみごみした所で育った堀辰雄が軽井沢で師とする芥川龍之介にとりいるために養父に借金しながらその養父の無教養さを馬鹿にし、現実逃避のロマンチックな作品を書いたことを、江藤は非難
 『閉ざされた言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』刊 『全文芸時評』刊
99年7月『妻と私』刊 『幼年時代』連載 7月自殺

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